ミサイルより先に家計を直撃するもの 戦争と原油高が招く世界的スタグフレーションの足音

ミサイルより先に家計を直撃するもの 戦争と原油高が招く世界的スタグフレーションの足音

市場は楽観、現実は逼迫――戦争で壊れた原油価格の“羅針盤”

戦争が経済を傷つけるとき、最初に注目されるのはたいてい株価や原油先物だ。だが今回の不気味さは、見えている数字より、見えにくいところに広がっている。IMFは4月公表の世界経済見通しで、戦争が限定的な期間と範囲にとどまる想定でも、2026年の世界成長率は3.1%、2027年は3.2%にとどまり、2026年の世界インフレは一度持ち上がってから2027年に再び鈍化するとみている。しかもIMFは、戦争がなければ2026年成長率は3.4%程度まで上方修正できた可能性があったとも示している。つまり世界経済は、好転しかけた局面で再び足を取られたわけだ。

スタグフレーションという言葉が再び現実味を帯びているのも、そのためだ。物価が上がるだけなら中央銀行は引き締めで対応しやすい。景気が悪くなるだけなら利下げや財政支出で下支えしやすい。だが、物価高と景気減速が同時に来ると、どちらに動いても副作用が大きい。IMFは、上昇する商品価格、強まるインフレ期待、引き締まる金融環境が最近までの景気の粘り強さを試していると指摘した。特に打撃を受けやすいのは、もともと政策余地が小さい新興国や、エネルギー輸入に頼る脆弱な国々だ。高金利、高債務、通貨安の不安があるところに、燃料・食料・輸送コストの上昇が重なるからだ。

では、何がそこまで危ういのか。ひとつは、原油価格の「見え方」と「現実」がズレ始めていることだ。ロイターは、原油先物が比較的落ち着いた水準を示していても、現物の原油や精製の現場でははるかに高いコストが発生していると報じた。4月中旬時点で、ブレント先物が95〜100ドル前後を示す一方、欧州向け現物の指標価格は120ドル近辺まで跳ね上がり、北海の一部原油では一時150ドル近くまで上昇したという。市場は「いずれ停戦し、供給は戻る」と希望を織り込むが、現物市場は「戻るとしても数カ月から数年はかかる」と見ている。このズレが大きいほど、企業も政府も家計も判断を誤りやすくなる。

実際、ホルムズ海峡をめぐる混乱は、数字以上に心理を揺らしてきた。ロイターによれば、海峡は世界の原油・LNGフローのおよそ2割を担っており、4月15日時点でも通航量は戦前の水準を大きく下回っていた。16日にはブレントが99.39ドル、WTIが94.69ドルまで上昇し、供給不安が続けば在庫の取り崩しが進むとの見方が広がった。一方で17日には、海峡再開の報道を受けて原油が89ドル割れまで急落し、年内利下げ観測がやや持ち直した。問題は、価格が上がることそのものより、上がったり下がったりを繰り返しながら、企業の仕入れや家計の期待に「高止まりするかもしれない」という感覚を植え付けることだ。

その感覚は、すでに消費者心理に現れ始めている。米ミシガン大学調査を伝えたロイターによると、4月初旬の米消費者信頼感指数は47.6と過去最低に落ち込み、1年先のインフレ期待は3.8%から4.8%へ急上昇した。調査責任者は、自由記述のコメントから、多くの消費者がイランをめぐる戦争を景気悪化の理由として挙げていると述べている。ガソリン高は家計の可処分所得を削り、他の支出を押し下げる。エネルギー価格の上昇は、最終的には航空運賃、食品、肥料、輸送費へと広がりやすい。だからこそ、戦争は遠い地域の軍事ニュースではなく、数週間遅れで生活コストのニュースになる。

 

SNS上の反応も、この「見えにくい生活コスト化」を敏感に拾っている。目立つのは、まず“中央銀行は身動きが取れない”という受け止めだ。Xでは、原油高がインフレを押し上げる一方で雇用や景気は弱り、FRBは利下げも利上げもやりにくい、という“スタグフレーション・トラップ”論が強く共有されている。英語圏のマーケット投稿では「油価上昇で利下げできない、でも労働市場が弱いから利上げも苦しい」という整理が拡散し、日本語圏でも「原油高→インフレ→消費減退→景気後退」という経路を警戒する投稿が目立った。

ただし、SNSが悲観一色かというとそうでもない。もうひとつの有力な反応は、“これは永続的な1970年代型ショックではなく、輸送と停戦の行方しだいで弱まる”という条件付きの冷静論だ。Xでは、ガソリン価格は次第に落ち着いても、破壊された生産や輸送の混乱で戦前水準には戻りにくいという慎重な見方があり、Redditでも「停戦が維持され、ホルムズ海峡が完全に再開し、ブレントが80ドル割れで数週間落ち着けば、スタグフレーション物語はかなり薄まる」といった議論が出ている。強気でも弱気でもなく、「分岐点は原油の絶対値より継続期間だ」という認識が広がっているのだ。

一方で、より実務的な視点の投稿も多い。たとえば「物理的な原油不足を先物が過小評価しているなら、企業収益見通しや株価はまだ楽観的すぎるのではないか」という疑問だ。ロイターは、企業業績予想が油価ショックのわりにあまり崩れていないこと、AI投資への期待もあって市場が戦争を“見ないふり”しやすいと指摘した。これは投資家心理としては理解しやすいが、もし供給回復が夏場までずれ込み、現物逼迫が先物へ一気に反映されれば、物価だけでなく資産価格の揺れも大きくなる。SNSではこの点をめぐって「市場は楽観しすぎ」「いや、停戦が進めば最悪シナリオは避けられる」と温度差が大きい。

では、本当に“スタグフレーションの再来”なのか。私は、今の段階で1970年代の再現だと言い切るのは早いと思う。なぜなら、需要そのものが完全に崩れているわけではなく、各国中央銀行もインフレ期待の固定化に対して以前より敏感だからだ。実際、海峡再開の報道が出ると原油は急落し、利下げ観測もすぐに戻った。つまり市場は、まだ「最悪ではない」と考えている。だが同時に、IMFもロイターも繰り返し示しているように、戦争が長引けば長引くほど、成長率の下振れとインフレの再加速が同時に進みやすくなる。問題は、ショックが起きたことではない。ショックが一時的だと皆が信じられなくなったとき、本当の意味でスタグフレーションは始まる。

今回の戦争が世界経済に残した最大の傷は、原油を高くしたことだけではない。価格の行き先を読むための“羅針盤”を壊したことだ。企業は仕入れをどう読むべきか迷い、中央銀行は物価をどこまで一時的と見なすべきか迷い、家計は「来月はもっと苦しくなるのか」と身構える。その迷いが長引くほど、投資も消費も慎重になり、成長は細っていく。SNSで交わされている不安も、結局はそこに集約される。人々が恐れているのは戦争の見出しそのものではない。戦争が、暮らしの値段をじわじわ変えてしまうことなのだ。


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