ソーシャルメディアの本質的な課題とは?「同意」があっても害は消えない ― SNSの問題を個人責任で終わらせてはいけない

ソーシャルメディアの本質的な課題とは?「同意」があっても害は消えない ― SNSの問題を個人責任で終わらせてはいけない

スマートフォンの画面を見ているとき、私たちは一人で行動しているように感じる。

動画を見る。投稿に「いいね」を押す。興味のない情報を飛ばし、気になる話題を検索する。その一つひとつは、極めて個人的な選択に見える。

しかし、その背後では、膨大な数の利用者の行動が集められ、分析され、次に何を見せれば画面から離れにくくなるかが計算されている。そこで生まれる影響は、もはや個人のスマートフォンの中だけには収まらない。

誰が敵として語られるのか。何が「普通」だと思われるのか。どの政治的主張が勢いを得るのか。若者が恋愛や性、男女関係をどう理解するのか。レコメンドの積み重ねは、社会の空気そのものを少しずつ変えていく。

SNSをめぐる本当の問いは、「自分のデータを消せるか」「アルゴリズムを使うことに同意したか」だけではない。

問うべきなのは、何十億人もの認識と感情を動かす仕組みを、広告収益を最大化する企業にどこまで委ねてよいのかということだ。


オーストラリアで始まった三つの規制論

オーストラリアでは現在、SNSと個人データをめぐる三つの政策が並行して進みつつある。

一つ目は「消去する権利」だ。政府が2026年8月に公表したプライバシー法改正案には、大規模なSNSや検索サービスに対し、利用者が自分の個人情報の削除を求められる制度が盛り込まれた。

二つ目は、SNSのレコメンド機能を利用者が選べるようにする改革である。性暴力防止団体Teach Us Consentを率いるシャネル・コントス氏は、利用者が明確に希望した場合だけパーソナライズを有効にする「オプトイン方式」を提唱している。

初期状態では、利用者がフォローした相手の投稿を時系列で表示する。閲覧履歴や反応を基にしたおすすめは、本人が選択した場合だけ表示するという考え方だ。

三つ目は「デジタル注意義務」である。被害が起きてから問題の投稿を削除するだけでなく、予見できる危険をサービスの設計段階から減らす責任を、運営企業に負わせようとするものだ。対象には投稿そのものだけでなく、レコメンドシステム、AI、ボット、通知、無限スクロールなどの機能も含まれ得る。

この三つは似ているようで、規制する対象が異なる。

削除権が扱うのは「企業が私について何を知っているか」であり、オプトインが扱うのは「私の画面に何を表示するか」である。それに対してデジタル注意義務は、「そもそも企業がどのような危険を生み出すサービスを提供してよいのか」を問う。

最後の問いこそ、SNS問題を個人の権利から社会の構造へ進める鍵になる。


なぜ「同意」だけでは足りないのか

個人情報の取得に同意を求めることは重要だ。しかし、多くのデジタルサービスにおける同意は、現実には形式化している。

利用規約をすべて読み、データがどのように組み合わされ、どんな推測に使われ、どの広告主に影響を与えるのかまで理解してから同意する人は少ない。サービスを利用したいなら一括して受け入れるしかない場合もある。

さらに、アルゴリズムの社会的影響は、同意した本人だけに生じるものではない。

ある利用者が過激な情報に引き寄せられれば、その影響は家族、学校、職場、地域社会へ持ち込まれる。偽情報を信じた人が投票や政治運動に参加すれば、アルゴリズムを利用していない人も結果から逃れられない。女性蔑視や人種差別が大量に拡散されれば、標的にされた側は、そのプラットフォームを使っていなくても社会生活の中で影響を受ける。

大気汚染を「煙を吸いたくない人は窓を閉めればよい」とは考えない。それと同じように、情報環境の汚染も、利用者一人ひとりの設定だけで解決することは難しい。

自分のデータを削除しても、他の何百万人ものデータから属性や行動を推測することはできる。自分だけおすすめを切っても、周囲の人々が同じ仕組みから影響を受けていれば、社会的な分断や過激化は続く。

個人の権利は必要だが、それだけでは十分ではないのである。


「おすすめ」の目的は利用者の幸福ではない

アルゴリズム自体は善でも悪でもない。

大量の投稿から必要な情報を探したり、知らなかった音楽や趣味、専門家、支援コミュニティーに出会ったりするうえで、レコメンドは大きな価値を持つ。災害時の情報伝達や、少数派の人々が仲間を見つけるためにも役立ってきた。

問題は、何を目的に最適化されているかだ。

広告を主な収益源とするサービスでは、画面を見続ける時間、クリック、共有、コメントなどが重要になる。穏やかで納得できる情報よりも、怒り、不安、恐怖、優越感を刺激する内容の方が強い反応を得るなら、システムはその方向へ傾きやすい。

利用者が過激な思想を最初から探していたとは限らない。筋力トレーニング、恋愛、仕事、自己啓発といった一般的な関心から入り、次第に「自分がうまくいかないのは特定の集団のせいだ」と説明する投稿へ導かれることもある。

このとき、企業は「利用者が関心を示した情報を表示しただけだ」と主張できる。しかし、その関心を測り、強め、似た情報を連続して見せる順番を決めているのはプラットフォームである。

選んだのは利用者なのか。それとも、選び続けるよう誘導されたのか。その境界は極めて曖昧だ。


Metaの巨額和解が示した責任の変化

2026年8月、Metaは、FacebookやInstagramが若者に与えた被害をめぐる米国の訴訟について、州・準州などの司法長官らと約180億ドル規模の和解に合意した。

合意には、若年利用者が自分では解除できない利用時間制限、夜間の利用制限、授業時間帯の通知抑制、保護者向け管理機能などが含まれる。支払いは10年間にわたる予定で、一部はYouTubeやTikTokが同様の基準を採用することを条件としている。

この和解だけで、SNSとすべての精神的被害との因果関係が確定したわけではない。それでも重要なのは、対策の重心が「子どもや保護者が気を付ける」ことから「企業が危険の少ない製品を設計する」ことへ移り始めた点だ。

シートベルトのない車に対して、事故に遭いたくなければ運転技術を磨けと言うだけでは不十分だ。製造者にも、安全性を高める責任がある。

SNSも同じ段階に入りつつある。


16歳未満の利用禁止だけでは解決しなかった

オーストラリアでは2025年12月から、主要SNSに16歳未満の利用を防止する措置が求められている。

制度開始後、未成年者のものと判定された数百万件のアカウントが削除、停止、制限された。一方で、年齢確認を回避して新しいアカウントを作る子どもがいることや、既存アカウントが残っていることも報告された。

これは禁止政策に意味がないという単純な話ではない。年齢制限が、社会として子どもを保護する意思を示し、企業に対策を迫った効果はある。

しかし、年齢だけを境界線にすると、16歳になった瞬間に、過度にパーソナライズされたフィードへ放り込まれる。成人も、詐欺、偽情報、陰謀論、ギャンブル広告、摂食障害を促す投稿などから無縁ではない。

子どもだけをSNSから遠ざけるのではなく、子どもが戻ってきても危険の少ないサービスへ変える必要がある。


SNS上では「初期設定でオフ」に支持、その一方で懸念も

公開されたSNS投稿を見ると、アルゴリズムを初期状態で無効にする案には強い支持が見られる。

 

オーストラリアのニュースを基に議論したRedditのスレッドでは、「初期設定でオフにすべきだ」「フォローした人の投稿を見たい」「友人の近況より広告や知らない人の意見、AI生成コンテンツばかり表示される」といった声が相次いだ。

怒りを誘う投稿に反応してしまうことを自覚し、時系列フィードへの回帰を歓迎する利用者もいた。アルゴリズムによる社会の分断を、民主主義や国家安全保障の問題として捉える意見も確認できる。

一方、反対や慎重な意見もある。

「嫌なら使わなければよい」「規制よりも教育が必要だ」という自己管理を重視する声に加え、自分で長期間調整してきたおすすめフィードを失いたくないという利用者もいる。趣味、音楽、地域情報、新しいクリエイターとの出会いが減ることを懸念し、「フォロー中」「おすすめ」「トレンド」「ランダム」など複数の表示方法を自分で選びたいという提案もあった。

LinkedInでは、アルゴリズムか時系列かという二択自体が不十分だとの指摘が出ている。重要なのは、どのような目的で最適化され、誰が管理し、利用者にどの程度の変更権限があるかだという意見である。若者は、自分の関心に合わせてフィードを調整できることには価値を感じる一方、企業側の都合で押し付けられる広告や無関係な投稿を問題視しているとの研究者のコメントもあった。

ただし、これらは公開投稿を抽出したものであり、世論調査ではない。特定のプラットフォームやスレッドには参加者の偏りがあるため、「国民の大多数が支持している」とまでは言えない。

それでも反応から見えてくるのは、利用者がパーソナライズそのものを全面否定しているのではなく、自分では制御できない形で感情や注意を利用されることに強い不満を抱いているということだ。


オプトイン方式にも限界がある

非パーソナライズ表示を初期設定にすれば、利用者が意識しないまま追跡型レコメンドへ組み込まれることは減る。それは明確な前進である。

EUのデジタルサービス法も、大規模プラットフォームに対し、プロファイリングに基づかないレコメンドを少なくとも一つ提供するよう求めている。

しかし、選択肢が存在することと、実際に使いやすいことは別だ。設定が深い階層に隠される、アプリを開き直すとパーソナライズ表示へ戻る、機能の一部だけが対象になるといった設計なら、権利は形式だけのものになる。

また、アルゴリズムを切っても、それまでにフォローした過激なアカウントは残る。ダイレクトメッセージ、検索、共有、コメント、外部リンクから有害情報が届く可能性もある。時系列表示も完全に中立ではなく、「誰をフォローしたか」「どの投稿を削除したか」という選択に左右される。

レコメンドは危険な「穴」に人を落とすことがある一方、新しい文化や支援へつながる「扉」にもなり得る。

必要なのはアルゴリズムを消滅させることではなく、その目的と権力関係を変えることだ。


規制すべきは「コンテンツ」だけでなく「増幅の仕組み」

SNS規制では、違法投稿や有害投稿を一件ずつ削除することに注目が集まりやすい。しかし、毎分膨大な投稿が生まれる環境では、削除だけで追いつくことは難しい。

同じ投稿でも、ほとんど表示されなければ影響は限定的だ。反対に、反応を稼げるという理由で数百万人に推薦されれば、社会的な影響は一気に拡大する。

したがって、企業に求めるべきなのは、削除件数だけではない。

どのような投稿が推薦によって拡散されたのか。若者が特定の有害情報に接触するまでにどれくらい時間がかかったのか。リスクが指摘された後にアルゴリズムを変更したのか。変更によって利用時間や広告収入が減る場合でも、安全を優先したのか。

こうした情報を監督機関や独立研究者が検証できなければ、企業が公表する安全報告だけに頼ることになる。

実効的な制度には、非パーソナライズ表示を初期設定にすることに加え、リスク評価、外部監査、研究者へのデータ提供、推薦理由の説明、設定を維持する義務、子どもを対象とした機能テストなどが必要になる。

さらに、利用者が複数のフィード提供者から表示方式を選べる仕組みや、投稿データを別の閲覧アプリで読める相互運用性も検討に値する。企業がコンテンツ、人間関係、表示順位を一体で独占している限り、利用者の「選択」は限られた範囲にとどまるからだ。


日本にとっても他人事ではない

オーストラリアの議論は、日本にも直接関係する。

日本でも、SNS上の誹謗中傷、偽情報、投資詐欺、闇バイトの勧誘、性的な画像被害、選挙時の情報操作が問題になっている。しかし、対策は投稿者の処罰、被害者による開示請求、利用者への注意喚起など、個人を単位とするものが中心になりやすい。

もちろん、悪質な投稿者の責任を問うことは欠かせない。ただし、刺激の強い投稿を優先的に拡散し、加害者と潜在的な被害者を結び付ける設計を放置したままでは、同じ問題が繰り返される。

「だまされないようにしよう」「見たくなければブロックしよう」「子どもには家庭でルールを教えよう」という対策だけでは、世界最大級のテクノロジー企業と一人の利用者との力の差を埋められない。

デジタル教育と同時に、教育だけに責任を押し付けない制度が必要だ。


問うべきは「誰の利益のための技術か」

削除権、同意、オプトアウト、オプトインは、いずれも大切な道具である。だが、それらは出発点であって、最終的な解決策ではない。

利用者全員が自分の設定を完璧に管理し、怪しい情報を見抜き、感情を刺激する投稿に反応せず、子どもの利用を常時監視することを前提とする制度は、現実には機能しにくい。

それより先に問うべきことがある。

大規模な監視と行動予測を前提にした広告システムは、社会にとって本当に必要なのか。推薦システムの成功を、利用時間や反応数以外の指標で評価できないのか。公共空間に匹敵する影響力を持つサービスに、公共利益への責任を負わせるべきではないか。

個人が一度「同意する」を押したという事実だけで、その後に生じるすべての社会的影響を正当化することはできない。

SNSの画面は私的なものに見える。しかし、そこで何十億回も繰り返される推薦は、私たちが共有する現実をつくっている。

だから必要なのは、「私はこのアルゴリズムを使いたいか」という問いだけではない。

「私たちは、どのような情報環境の中で一緒に生きたいのか」。

SNS規制の議論は、ようやくその問いに近づき始めている。


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