サッカーのダイビング問題:なぜ『芝居』は黙認されるのか? スコットランド発、ダイビング論争

サッカーのダイビング問題:なぜ『芝居』は黙認されるのか? スコットランド発、ダイビング論争

勝った監督まで「PKではない」――サッカーは“倒れ得”を許しすぎていないか

勝利した側の言葉が、判定への疑問を深めた

試合後、監督がPK判定に不満を漏らす。サッカーでは珍しくない光景だ。しかし、そのPKで利益を得た側の監督が、判定を支持しなかったとなれば話は変わる。

10月16日に行われたスコットランド・チャンピオンシップのエア・ユナイテッド対パーティック・シッスル戦で、そんな場面があった。

前半終了間際、シッスルのセブ・ドロズドがペナルティーエリア内で倒れ、マシュー・マクダーミド主審がPKを宣告した。近くにはエアのリアム・ディックがいたが、このプレーを反則とした判断に疑問が噴出した。

試合はシッスルが1対0で勝利。問題のPKが、両チームを分ける決定的な得点になった。

Daily Mailが伝えたところでは、シッスルのマーク・ウィルソン監督は、自分にはPKと思えなかったとの認識を示した。判定の瞬間にも、第4の審判員に同様の見解を伝えていたという。

自分たちに有利な判定について、見ていなかったと逃げずに疑問を認める。その姿勢は評価できる。同時に、勝った側からも支持されない判定だったことが、論争をさらに大きくした。


問われているのは「誤審」だけではない

敗れたエアのゲイリー・ネイスミス監督は、映像を繰り返し見たうえで、ドロズドの転倒をダイブだと批判した。前週にも不利益なPK判定があったと訴え、強い不満を示している。

BBCで解説していたジェームズ・マクファデンも、何が反則だったのか理解しにくいとの見方を示したと、元記事は伝える。

ただし、ここでは二つの論点を分ける必要がある。

一つは、守備側にPKを与えるほどの反則があったのか。もう一つは、攻撃側が意図的に審判を欺こうとしたのか、という問題だ。

前者への答えが「なかった」でも、後者への答えが自動的に「そうだ」になるわけではない。選手は足を滑らせることもあれば、接触を避けようとして体勢を崩すこともある。

今回、関係者からダイブとの批判が出ていることは事実だ。一方、この記事で確認した資料の範囲では、ドロズドに対する事後処分が確定したとは確認できない。批判と、正式な懲戒判断は区別して扱うべきだろう。


SNSでは判定への疑問と、選手の責任を問う声

The Scottish Sunは、この判定をめぐるSNS上の反応として、主審が何を見てPKと判断したのか疑問視する声や、審判だけでなく選手にも責任を求める投稿を紹介している。

ここで取り上げているのは、同紙が掲載した投稿の要旨であり、SNS全体の意見分布を示すものではない。

注目したいのは、批判の矛先が主審だけに向いていないことだ。仮に選手が審判を欺こうとしたのであれば、見抜けなかった側だけを責めて終わってよいのか。この問いが浮かび上がる。

一方、短い映像が拡散される場では、判定への疑問が、本人の人格や審判としての適性を全面否定する言葉へ飛躍しやすい。プレーを検証することと、個人への攻撃を広げることは別である。

必要なのは、怒りの強さを競うことではなく、何が起き、何を根拠に判断したのかを確かめることだ。


シミュレーションは、もともと警告の対象である

競技規則を定める国際サッカー評議会(IFAB)は、負傷を装ったり、反則を受けたふりをしたりして審判を欺こうとする行為を、反スポーツ的行為として警告の対象にしている。

つまり、シミュレーションに対して「そもそもルールがない」わけではない。

論点は、そのルールをどの場面で、どの程度の確信をもって適用するかにある。

たとえば、選手が倒れたものの反則がなかった場合、単にプレーを続ける判断が適切なこともある。欺こうとする意図まで認められなければ、転倒だけを理由に警告するべきではない。

逆に、明白に反則を装っていると判断したのに、毎回「立ちなさい」という身ぶりだけで済ませるのであれば、警告を定めた規則の実効性は弱まる。

求められるのは、倒れた選手への一律の厳罰化ではない。自然な転倒と、利益を得るための欺瞞を丁寧に分け、後者には一貫して対応することだ。


「うまくPKをもらった」は、何を褒めているのか

日本のサッカーファンにとっても、この問題は遠い国の出来事ではない。

観戦中、「うまくPKをもらった」「経験のあるプレーだった」と感じる場面はあるだろう。しかし、その言葉が指しているものは必ずしも同じではない。

相手より先にボールへ触れ、守備側の無理なチャレンジによって倒されたのであれば、技術や判断力が反則を引き出したといえる。一方、存在しない反則を存在するように見せたのであれば、褒めている対象は審判を欺く行為になってしまう。

この区別を曖昧にしたまま、結果だけを評価するとどうなるか。

倒れずにプレーを続けた選手より、大きく倒れた選手のほうが得をする。そうした認識が広がれば、選手が競う対象に「反則を受けたように見せる技術」が加わってしまう。

もちろん、今回の一件だけでサッカー全体が昔より不正になったとはいえない。比較可能なデータなしに、過去を美化するのも適切ではない。

それでも、味方の行為なら知恵として称賛し、相手の同じ行為なら不正として非難する。その見方の揺れは、観客自身が点検できる。


監督の率直さを、チームの基準につなげられるか

今回、ウィルソン監督が自分たちに有利な判定にも疑問を述べたことは、議論の出発点になる。

判定への評価が勝敗によって変わるなら、監督の発言は相手への批判としてしか受け止められなくなる。自分たちが得をした場面でも同じ基準で語る姿勢は、フェアプレーを具体的な行動にする第一歩だ。

元記事の筆者は、クラブによる選手への罰金という案にも言及している。ただし、これは筆者の提案であり、実際に処分が行われたという報道ではない。

また、クラブが選手に対応する場合にも、映像や本人の説明を踏まえた判断が必要になる。世間の反発が強いからという理由だけで、意図を決めつけてよいわけではない。

クラブが共有すべきなのは、もっと基本的な基準だろう。正当な反則を受けたことを伝えるのはよい。しかし、存在しない反則を作り出そうとする行為は認めない。その境界を、勝利した日にも保てるかが問われる。


サッカーが守るべきは「倒れない強さ」より判定への信頼

ダイビングへの批判は、ときに「昔の選手は簡単に倒れなかった」という話へ向かう。しかし、選手に接触や痛みを我慢させる方向へ進めば、別の問題を生む。

守られるべきなのは、危険なプレーを受けても立ち続けることではない。実際に受けた反則が正しく扱われ、受けていない反則を装っても利益を得られない環境だ。

そのためには、審判の判断力だけでなく、選手の行動、監督の評価、観客が何を称賛するかも関わってくる。

スコットランドの一つのPKが突きつけたのは、「この主審は間違えたのか」という問いだけではない。

自分のチームが得をしたときにも、同じ基準でプレーを見られるか。勝利を喜ぶことと、不適切な行為を正当化することを切り離せるか。

判定への信頼を守る仕事は、笛を持つ一人だけに任せられるものではない。


出典