ツナ缶の向こうで起きている危機 ― キリバス経済を揺らす「魚の大移動」

ツナ缶の向こうで起きている危機 ― キリバス経済を揺らす「魚の大移動」

ツナ缶の向こうで起きている危機――キリバス経済を揺らす「魚の大移動」

スーパーの棚に並ぶツナ缶を手に取るとき、その魚がどこから来たのかまで考える人は多くない。安価で保存が利き、サラダにもおにぎりにも使えるツナは、世界中の食卓に溶け込んでいる。しかし、その当たり前の食品の裏側で、太平洋の小さな島国の未来を左右する変化が静かに進んでいる。

舞台はキリバス。赤道付近の太平洋に点在する33の島々からなる国だ。陸地をすべて合わせても、面積はニューヨーク市ほどしかない。一方で、キリバスが持つ海の領域、つまり排他的経済水域は約340万平方キロメートルに及ぶ。これはインドの国土面積を上回るほど広大だ。

この海こそが、キリバスの経済を支えてきた。カツオ、キハダ、メバチなどのマグロ類が豊富に回遊し、日本、中国、米国、欧州連合などの漁船が操業する。外国漁船はキリバス政府からライセンスを買い、漁獲量や報告義務などのルールに従って操業する。キリバスにとって、このライセンス収入は単なる産業収入ではない。国家予算を支える柱そのものだ。

BBCが報じた内容によれば、キリバス政府は2024年に漁業ライセンス料から1億3700万ドルを得た。2018年から2022年にかけては、政府収入のほぼ4分の3をこうしたライセンス料が占めていたという。国際通貨基金の分析では、これは同国GDPの約2〜4割に相当する規模だ。つまり、マグロがいるかどうかは、学校、医療、インフラ、行政サービスの維持に直結する。

ところが、そのマグロが今後、キリバスの海から離れていく可能性がある。原因は気候変動による海水温の上昇だ。

マグロは水温のわずかな変化に敏感だとされる。海面水温が上がれば、より適した温度を求めて移動する。複数の研究では、太平洋のマグロ資源は温暖化に伴って東へ移動する可能性が示されている。キリバスを含む一部の島国にとって、それは自国の排他的経済水域から魚が遠ざかることを意味する。

この変化が現実になれば、外国漁船にとってキリバスの海で操業する価値は下がる。魚が少ない場所に高いライセンス料を払う理由は薄れるからだ。そうなれば、キリバス政府の収入は大きく揺らぐ。キリバス漁業省は、高排出シナリオが続いた場合、2050年までに漁業アクセス料が年間1000万ドル以上減少する可能性があるとしている。

年間1000万ドルという数字は、巨大経済圏から見れば小さく見えるかもしれない。しかし、人口約13万人の小島嶼国にとっては、財政の安定を左右する金額だ。しかもキリバスは、他の国のように鉱物資源や広大な農地、工業地帯を持っているわけではない。陸地は狭く、最高地点も非常に低く、淡水資源も限られている。経済の多角化は簡単ではない。

問題は国家財政だけではない。食料安全保障にも影響が及ぶ。

キリバスでは、魚は日常の食生活に深く根付いている。太平洋共同体の情報によれば、キリバスの1人当たり魚消費量は年間約100キログラムに達する。これは米国や日本と比べても非常に高い水準だ。魚は単なる輸出資源ではなく、地域社会のタンパク源であり、文化そのものでもある。

ところが、地元漁業にも変化が予測されている。BBCが伝えたところでは、高排出シナリオだけでなく、低排出シナリオでも地域の漁獲は減少する見通しがある。特にライン諸島では、低排出シナリオでも漁獲が大きく落ち込む可能性が指摘されている。温暖化を抑えられたとしても、すでに一定の影響は避けられないという厳しい現実がある。

この変化は、輸入食品への依存を強める恐れもある。魚が手に入りにくくなれば、家庭は缶詰、米、加工食品などに頼る比率を高める。輸入食品は価格変動の影響を受けやすく、栄養面でも従来の魚中心の食生活を代替しきれない可能性がある。とりわけ離島部では、物流コストが上乗せされるため、食料価格の上昇は生活を直撃する。

SNS上でも、この問題に対する反応は広がっている。気候変動関連の投稿では、キリバスやツバルなどの太平洋島嶼国を「気候危機の最前線」と捉える声が目立つ。海面上昇だけでなく、魚の移動によって国家収入と食料が同時に脅かされるという点に驚く反応も多い。

一方で、消費者側の責任を問う声もある。ツナ缶や刺身、寿司として消費されるマグロが、どの海域で、どのような管理のもとで獲られているのかを知るべきだという意見だ。持続可能な漁業認証、漁獲情報の透明化、サプライチェーンの責任を求める投稿も見られる。世界の食卓が太平洋の海に依存している以上、問題はキリバスだけのものではないという認識が広がっている。

さらに、気候正義の観点からの反応も強い。キリバスのような国々は、世界全体の温室効果ガス排出に占める割合が極めて小さい。それにもかかわらず、海面上昇、淡水不足、沿岸浸食、そして漁業資源の移動という形で、最も深刻な影響を受けている。SNSでは「排出量の少ない国が、なぜ最も重い代償を払うのか」という疑問が繰り返し共有されている。

ただし、解決策がないわけではない。

国連の緑の気候基金は、太平洋の14カ国・地域を対象に、マグロ依存型の経済と地域社会を気候変動に適応させる大型プロジェクトを進めている。総額は1億5680万ドル規模とされ、マグロ資源の分布変化を予測する警戒システムの強化、沿岸・都市部への魚供給の改善、政府収入の安定化支援などが柱になっている。

このプロジェクトの重要な点は、単に「魚が減るから困る」という話に留まらないことだ。どの海域に魚が移動するのか、どの程度の収入減が起こり得るのか、どの地域で食料不足が深刻化するのかを、科学的なデータに基づいて予測し、政策に反映しようとしている。

キリバス政府も、外国漁船にライセンスを売るだけの構造から脱却しようとしている。国内でのマグロ加工や缶詰製造を拡大し、魚の付加価値を国内に残す取り組みが進められている。また、ミルクフィッシュ、フエダイ、ナマコなどの養殖や海洋農業の育成も検討されている。観光、再生可能エネルギー、海外資産を活用した基金など、海以外の収入源を広げる試みもある。

しかし、それでも課題は大きい。加工施設を整備するには電力、水、冷蔵設備、人材、輸送網が必要になる。観光を育てるにも航空路、宿泊施設、気候リスクへの対応が欠かせない。再生可能エネルギーの導入にも資金と技術がいる。キリバスのような国が単独でこれらすべてを進めるには限界がある。

だからこそ、国際社会の関与が問われている。気候変動によって魚が移動するなら、従来の「魚はその国の海にいるから、その国がライセンス料を得る」という仕組みも揺らぐ。魚が公海へ移動した場合、誰が利益を得て、誰が損失を負担するのか。資源管理、漁業権、補償、国際ルールの再設計が必要になる。

これは、未来の話ではない。すでに海は温まり、漁業者は変化を感じ始めている。キリバスのような国々にとって、気候変動は抽象的な環境問題ではなく、来年度予算、子どもの食事、病院の運営、学校の維持に関わる現実だ。

ツナ缶を開けるとき、私たちはその向こうにある海をほとんど想像しない。だが、世界のマグロの半分以上を生み出す太平洋では、海水温のわずかな上昇が、国の財政を揺るがし、人々の食卓を変え、主権や公平性の議論にまでつながっている。

キリバスの危機は、遠い島国の特殊な問題ではない。気候変動が、自然環境だけでなく、国の収入構造、国際貿易、食料価格、消費者の選択にまで波及することを示す象徴的な例である。

もしマグロがキリバスの海から離れていくなら、失われるのは魚だけではない。海とともに生きてきた国の経済的な土台、地域社会の食文化、そして「排出の少ない国ほど大きな被害を受ける」という不公平を是正する機会も失われかねない。

気候変動の影響は、氷河や森林だけに現れるわけではない。私たちの皿の上にも、缶詰の中にも、すでに入り込んでいる。



出典URL

BBC記事「How climate change threatens the economic backbone of the Pacific」
キリバスの漁業ライセンス収入、EEZ、マグロ資源の移動リスク、地元漁業と食料安全保障への影響、政府や専門家のコメントを参照。
https://www.bbc.com/news/articles/cq57vxjvdy4o

Green Climate Fund「FP259: Adapting tuna-dependent Pacific Island communities and economies to climate change」
太平洋島嶼国のマグロ依存経済を気候変動に適応させるプロジェクトの概要、目的、資金規模、早期警戒・食料安全保障支援について参照。
https://www.greenclimate.fund/project/fp259

Pacific Community「Pacific Assessment Reveals How Climate Change Is Recasting Fisheries and Aquaculture」
太平洋の漁業・養殖に対する気候変動影響、マグロ資源の分布変化、各国EEZへの圧力について参照。
https://www.spc.int/updates/news/media-release/2025/11/pacific-assessment-reveals-how-climate-change-is-recasting

Nature Sustainability「Pathways to sustaining tuna-dependent Pacific Island economies during climate change」
高排出シナリオ下で太平洋小島嶼国のマグロ資源が減少し、公海側へ移動する可能性を示した研究として参照。
https://www.nature.com/articles/s41893-021-00745-z

FAO「Kiribati - Fishery and Aquaculture Country Profiles」
キリバスの漁業・養殖の国別概要、マグロ漁業の重要性、漁業セクターの背景情報として参照。
https://www.fao.org/fishery/en/facp/kir

Conservation International「Adapting Tuna-Dependent Pacific Island Communities and Economies to Climate Change」
太平洋島嶼国のマグロ依存経済、沿岸コミュニティへの魚供給、マグロ分布変化の予測ツールに関する情報を参照。
https://www.conservation.org/gcf/projects/pacific-tuna

Pacifical「Social Media」
SNS上で共有されている、気候変動によるマグロ資源再分布が太平洋のマグロ依存国に与える影響に関する発信傾向を参照。
https://www.pacifical.com/social-media/

Pacific Community Facebook投稿
「太平洋のマグロが気候危機の最前線にある」という趣旨のSNS発信例として参照。
https://www.facebook.com/spc.int/posts/-pacific-tuna-is-at-the-frontline-of-the-climate-crisis-and-so-are-our-pacific-c/1301039262051839/