「LGBT」を消す国、マレーシアで進む“言葉の取り締まり”

「LGBT」を消す国、マレーシアで進む“言葉の取り締まり”

「LGBT」を言わない国へ──マレーシア政府の呼称変更が示すもの

マレーシアで、LGBTQの人々をめぐる政府の言葉遣いが大きな議論を呼んでいる。政府関係者は「LGBT」という表現の使用を避け、代わりにマレー語で「逸脱文化」を意味する「budaya songsang」という呼称を使うよう促している。表向きの理由は、LGBTという単語を繰り返し使うことで、SNSや検索エンジンのアルゴリズムが関連コンテンツを表示しやすくなり、結果的に性的少数者の存在や文化が「正常化」されてしまう、というものだ。

しかし、この呼称変更は単なる言葉の置き換えではない。人権団体や当事者支援団体は、政府が特定の人々のアイデンティティを「逸脱」と名づけることで、社会的な偏見や監視、差別を正当化する危険があると警告している。問題の核心は、「どの言葉を使うか」ではなく、「国家が誰を社会の外側に置こうとしているのか」にある。

今回の方針は、2026年2月にマレーシア上院で示された発言が発端となっている。首相府宗教担当の副大臣マルハマ・ロスリ氏は、LGBTに関する表現について、今後は「budaya songsang」を使うべきだと述べた。政府側の説明では、LGBTという言葉を発話・記述する回数が増えるほど、関連コンテンツがオンライン上に出現しやすくなり、知らず知らずのうちに「その文化」を宣伝してしまうという理屈だ。

この説明には、いかにも現代的な響きがある。SNSのレコメンド、検索順位、動画アプリの表示内容。たしかに、オンライン空間では、ある言葉が検索され、共有され、反応を集めるほど、その言葉を含むコンテンツが広がりやすくなる。しかし、政府がその仕組みを理由に、特定のマイノリティを名指しする言葉そのものを置き換えようとする時、そこには表現管理と社会的排除の問題が生まれる。

「LGBT」という言葉は、単なる流行語ではない。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーをはじめ、多様な性的指向や性自認をもつ人々が、自分たちの存在を説明し、権利を求め、支援につながるための言葉でもある。その言葉を「逸脱文化」と言い換えることは、当事者の存在を個人としてではなく、社会に害を与える“現象”や“問題”として扱うことにつながりかねない。

マレーシアでは、同性間の性行為は連邦法や州のシャリア法の下で処罰対象となりうる。性のあり方やジェンダー表現をめぐる制約も強く、LGBTQ当事者は法制度、宗教的規範、社会的偏見の三重の圧力の中で生活している。今回の呼称変更は、そうした既存の圧力をさらに強めるものとして受け止められている。

実際、マレーシアでは近年、LGBTQ関連の可視性に対する規制が相次いでいる。2023年には、レインボーカラーを含むSwatch製品が「LGBTQ要素」を含むとして問題視され、所有や販売に罰則が及ぶ可能性が報じられた。2026年には、同性愛者向け出会い系サイトGrindrやBluedのウェブ版へのアクセスが遮断され、アプリストアでの扱いについても法的措置が検討された。さらに、警察がホテルでの集まりを「ゲイ・パーティー」と表現して摘発した件も報じられており、当事者コミュニティへの監視が強まっているとの懸念が広がっている。

人権団体の反発は強い。Justice for Sistersは、今回の呼称変更について、LGBTの人々を非人間化し、誤情報を広げ、「矯正されるべき存在」という危険な考え方を強めるものだと批判した。同団体は、こうした言葉が暴力や差別を誘発し、マレーシア連邦憲法が保障する尊厳や平等にも反すると訴えている。

Amnesty International Malaysiaも、政府の判断を厳しく非難している。同団体は、公的な立場にある人物がLGBTIの人々を「逸脱」と呼ぶことは、道徳を守る行為ではなく、弱い立場に置かれた人々への憎悪と差別を正当化する行為だと指摘した。権力者の言葉は、単なる意見では終わらない。行政機関、宗教組織、警察、学校、家族、職場にまで影響を及ぼし、社会の空気を変えてしまうからだ。

SNS上の反応も割れている。保守的な投稿やコメントの中には、政府の方針を支持し、「LGBTという言葉を使わない方がよい」「若者に広まる前に止めるべきだ」とする声がある。一方で、批判的なユーザーは、政府が本当に取り組むべき問題を見失っていると反論している。あるXユーザーは、LGBTを「逸脱文化」と呼び替えるほどの熱意があるなら、汚職や賄賂といった社会問題にも同じ熱量を向けるべきではないか、という趣旨の投稿をして注目された。

InstagramやFacebookのコメント欄でも、同じ対立が見える。政府発表を伝える投稿には、宗教的・道徳的な観点から方針を歓迎する反応が並ぶ一方で、「なぜ国家が個人のアイデンティティをここまで管理するのか」「言葉を変えても当事者は消えない」「むしろ差別を増やすだけだ」といった批判も見られる。SNS上の議論は、マレーシア社会の中でLGBTQをめぐる価値観が深く分断されていることを映し出している。

この問題で見落としてはならないのは、当事者にとって「言葉」は安全と直結しているという点だ。自分を説明する言葉が奪われると、相談窓口を探すことも、支援団体につながることも、健康情報へアクセスすることも難しくなる。HIV予防、メンタルヘルス、暴力被害の相談、家族からの圧力への対処。こうした領域では、正確で中立的な言葉が不可欠だ。政府が「LGBT」という語を避けるよう促せば、当事者はますます見えにくくなり、支援も届きにくくなる。

さらに、「アルゴリズム対策」という説明も慎重に見る必要がある。もし政府が本当にオンライン上の有害コンテンツを懸念しているのであれば、未成年者保護、詐欺、性的搾取、ヘイトスピーチといった具体的な被害に焦点を当てるべきだろう。しかし、LGBTという言葉そのものを問題視すれば、性的少数者の存在や情報共有そのものが「有害」とみなされる危険がある。これは、オンライン安全政策というより、アイデンティティの可視性を制限する政治に近い。

マレーシア政府の姿勢には、国内政治の文脈もある。アンワル・イブラヒム首相はかつて改革派として期待されたが、政権運営では保守的なイスラム勢力やマレー系有権者への配慮が欠かせない。LGBTQの権利をめぐる問題は、政治的にコストを払わずに「道徳的権威」を示せるテーマとして使われやすい。社会的に弱い立場にある人々を標的にすることで、政府は保守層に向けて強い姿勢を演出できる。

だが、その代償を払うのは当事者だ。名前を変えられ、存在を「逸脱」と呼ばれ、オンライン空間からも現実の集まりからも排除される。こうした流れは、法律上の処罰だけでなく、家族内の圧力、職場での不利益、学校でのいじめ、医療や福祉へのアクセス低下にもつながる。言葉の問題は、生活の問題であり、生存の問題でもある。

政府は、LGBTという語を使わなければ関連コンテンツの拡散を防げると考えているのかもしれない。しかし、言葉を禁じても、人は消えない。むしろ、名前を奪われた人々は、より孤立し、より危険な状況に置かれる。社会がすべきことは、存在を覆い隠すことではなく、誰もが暴力や差別を恐れずに暮らせる条件を整えることだ。

今回のマレーシアの方針は、アジアにおけるLGBTQの権利をめぐる大きな分岐点を示している。多様性を認める方向へ進む国や地域がある一方で、「伝統」「道徳」「宗教」「オンライン安全」を理由に、性的少数者の可視性を押し戻そうとする動きも強まっている。マレーシアの呼称変更は、その象徴的な出来事だ。

「LGBT」という言葉を「逸脱文化」に置き換えることは、単なる翻訳ではない。それは、国家がどのような人々を“普通”の外側に置くのかを決める行為である。だからこそ、この問題はマレーシア国内だけの話ではない。言葉を変えることで人々の存在を管理しようとする政治が、どの社会にも起こりうることを示している。


出典URL

Metro Weekly:今回の基点記事。マレーシア政府が「LGBT」を「budaya songsang」に置き換える方針を進めていること、当局側の説明、人権団体の批判を報じた記事。
https://www.metroweekly.com/2026/06/malaysia-lgbt-deviant-culture/

BERNAMA:マルハマ・ロスリ副大臣の発言を伝えたマレーシア国営通信社の記事。アルゴリズムや「正常化」回避を理由に「budaya songsang」の使用を促した内容の一次報道。
https://bernama.com/bm/news.php?id=2527890

Malay Mail:BERNAMA報道を英語で伝え、発言の背景やDewan Negaraでの質疑内容を整理した記事。
https://www.malaymail.com/news/malaysia/2026/02/26/deputy-minister-says-lgbt-should-be-called-deviant-culture-to-avoid-normalisation/210509

Justice for Sisters:呼称変更を「国家主導の差別と誤情報の危険な高まり」と批判した声明。LGBTの人々の尊厳、平等、暴力・差別リスクへの影響を指摘。
https://justiceforsisters.org/resources/deputy-ministers-senate-intervention-marks-dangerous-rise-in-state-sponsored-lgbtq-discrimination/

Amnesty International Malaysia:政府の呼称変更を「憎悪と差別を助長する」と批判した声明。公的立場の人物による言葉の影響を警告。
https://www.amnesty.my/2026/02/27/reckless-labeling-of-lgbti-people-as-deviant-fuels-hate-and-discrimination/

Global Voices:今回の呼称変更に対する人権団体の批判、政治的背景、SNS上の反応を整理した記事。Xユーザーによる腐敗対策との比較投稿も紹介。
https://globalvoices.org/2026/06/23/malaysian-government-replaces-the-term-lgbt-with-deviant-culture/

Channel News Asia:マレーシアがGrindrとBluedのウェブ版へのアクセスを遮断し、LGBTQ向け出会い系アプリへの法的措置を検討していると報じた記事。
https://www.channelnewsasia.com/asia/malaysia-blocks-same-sex-dating-sites-grindr-blued-legal-measures-lgbtq-apps-5951691

Channel News Asia:クアラルンプールのホテルで「ゲイ・パーティー」とされる集まりに関連して51人が拘束された件を報じた記事。
https://www.channelnewsasia.com/asia/malaysia-police-arrest-51-men-drug-raids-gay-party-6142121

AP News:マレーシア政府がLGBTQ要素を含むSwatch製品を禁止し、所有者や販売者に罰則が及ぶ可能性を報じた記事。
https://apnews.com/article/malaysia-bans-lgbtq-swatch-d386af4e660939afba6d26f5b23aee7d

Human Rights Watch:マレーシアにおける反LGBTの転向慣行、差別、暴力、法制度上の問題をまとめた報告書。
https://www.hrw.org/report/2022/08/10/i-dont-want-change-myself/anti-lgbt-conversion-practices-discrimination-and