“食欲スイッチ”から“渇望オフ”へ - 「痩せる薬」が酒をやめさせる? GLP-1と依存症治療の最前線

“食欲スイッチ”から“渇望オフ”へ - 「痩せる薬」が酒をやめさせる? GLP-1と依存症治療の最前線

「痩せる薬」が、酒とドラッグの“ノイズ”を消し始めた

ダイエット薬として世界的ブームになったGLP-1受容体作動薬(以下GLP-1薬)が、いま別の現場で静かに存在感を増しています。
アルコールや薬物依存に苦しむ人の「渇望(クレービング)」を弱めるかもしれない——そんな報告が、アメリカの専門施設やSNS上から次々と上がっているのです。The Washington Post


フロリダのリハビリ施設で治療を受けたスーザン・エイキンさん(41)は、その象徴的な一人。痩せたいわけではなく、コカインとアルコールへの強烈な衝動に押しつぶされそうになっていた彼女に、医師が提案したのは本来「肥満治療薬」であるZepbound(有効成分:チルゼパチド)でした。The Washington Post


週1回の自己注射を続けるうちに、ガソリンスタンドでビールを買いたい衝動や、砂糖を見てドラッグディーラーに電話したくなる感覚が、少しずつ“遠ざかっていった”といいます。

「薬は魔法じゃない。でも、頭の中の音量を下げてくれる」


エイキンさんはそう語ります。依存症の治療は、行動療法や支援グループなど長期的な支えが重要ですが、その前提になる「今日一日、飲まない・やらない」を手助けする“ブレーキ役”として、GLP-1薬が脚光を浴び始めています。



GLP-1薬ってそもそも何? なぜ依存症に効く可能性があるのか

GLP-1薬はもともと、糖尿病と肥満の治療薬として開発されました。代表的なものがセマグルチド(Ozempic/Wegovy)やチルゼパチド(Zepbound)です。これらは、食後に腸から分泌されるホルモン「GLP-1」に似た働きを持ち、

  • インスリン分泌を促す

  • 胃の動きを遅らせて満腹感を長く保つ

  • 食欲や「食べたい」という衝動を弱める

といった効果を持っています。The Washington Post


最近の研究では、GLP-1が脳内の報酬系にも影響していることが注目されています。依存症では、アルコールやドラッグを摂るたびに脳内のドーパミンが過剰に分泌され、「もっと欲しい」という回路が強化されます。


動物実験や人の脳画像研究から、GLP-1薬はこの「報酬回路のゲインを下げる(音量を絞る)」ように働き、アルコールや薬物を摂ったときの快感を小さくする可能性が示唆されています。The Washington Post


科学誌 Scientific Reports に掲載された研究では、セマグルチドやチルゼパチドを服用している肥満の人を対象に、飲酒量や酩酊の感じ方を調べたところ、

  • 飲酒量が有意に減少

  • 一度の飲酒で飲む量も減少

  • いわゆる「一気飲み(ビンジ飲酒)」の頻度も低下

といった結果が得られました。Bariatric News


また、別の実験ではGLP-1薬を服用している人にバーのような環境でアルコールを飲んでもらうと、アルコールが体内に吸収されるスピードが遅く、酔いの立ち上がりもマイルドになる傾向が報告されています。Scientific American
「脳に届くまでのスピードを落とすことで、報酬感も弱まるのではないか」と研究者は指摘しています。



依存症治療の現場で起きていること

ワシントン・ポストの記事によれば、ペンシルベニアやフロリダに拠点を持つ高級リハビリ施設「Caron Treatment Centers」では、アルコール依存やコカインなどの刺激薬使用障害の患者130人以上に対してGLP-1薬を用いるパイロットプログラムを実施中だといいます。The Washington Post


主導するのは小児科医から依存症専門医に転身したスティーブン・クライン医師。自身もアルコール依存からの回復経験があり、3年前に糖尿病薬Mounjaro(こちらもチルゼパチド製剤)を処方された際、「食べ物のことばかり考えていた頭の中の声が静かになった。それが、かつて酒やドラッグが占めていた領域にも作用したように感じた」と語っています。The Washington Post


この経験から、彼は「渇望の音量を少し下げてあげる薬」としてGLP-1に可能性を見いだし、プログラムを立ち上げました。

さらに、刑務所から社会復帰を目指す女性を支援する非営利団体「Open Doors」とも連携し、再犯防止や長期断酒を支えるツールとしてGLP-1薬を提供する取り組みも始まっています。The Washington Post


もちろん、薬だけで人生が一変するわけではありません。患者は12ステップ・プログラムやカウンセリング、生活スキルのトレーニングなどと組み合わせて治療を受けています。それでも「酒のことばかり考えていた頭に、別のことを考える余地ができた」「スーパーの酒売り場を素通りできるようになった」といった声は、治療継続のための大きな追い風になっているようです。The Washington Post



SNSが“予備データベース”に レディットとXの生の声

この新しい使い方をめぐって、SNSはすでに一種の「巨大な臨床観察記録」と化しています。

アメリカの研究チームが2009〜2023年に投稿されたGLP-1関連のReddit投稿6.8万件超を分析したところ、そのうちアルコールに言及した約1,600件の投稿の72%が「飲酒量が減った」「酒をあまり欲しくなくなった」といった内容だったと報告しています。Bariatric News


スレッドのタイトルには、

  • 「科学者はうっかり“反依存症薬”を発明してしまったのでは?」

  • 「Mounjaroを打ち始めてから、なぜか飲む量が激減した」

といったものが並び、体験談のコメントが何百件もぶら下がっています。healthday.com


X(旧Twitter)でも、#Ozempic や #Wegovy、#Zepbound などのハッシュタグの下で、

  • 「晩酌のワインがまったく進まなくなった」

  • 「タバコと酒の両方の欲求が薄れた」

といったポジティブな声が目立ちます。一方で、医師や研究者のアカウントからは、

  • 依存症治療の正式な適応はまだない

  • 吐き気や胃腸障害などの副作用も無視できない

  • 長期的な安全性・効果は、しっかりした臨床試験を待つ必要がある

といった冷静な注意喚起の投稿も多く見られます。X (formerly Twitter)

こうしたSNSの声はバイアスも大きいものの、研究者にとっては「次に検証すべき仮説」を見つけるヒントの宝庫にもなっています。



それでも依存症治療は“魔法の一発”ではない

希望が語られる一方で、専門家は口をそろえて「現時点ではあくまで可能性」と強調します。

エンドクリン学会(内分泌学会)が2025年に発表したレビュー論文では、「GLP-1薬はアルコールおよびその他の物質使用障害に対する有望なアプローチだが、現状の治療ギャップをすぐに埋められるほどのエビデンスはない」と慎重なトーンでまとめられています。endocrine.org


  • 動物実験や小規模臨床試験では、飲酒量や渇望の低下が示唆されている

  • しかし長期的な追跡データは乏しく、副作用や依存症患者特有のリスク(うつ、自殺念慮など)との関連も十分に検証されていない

  • そもそも現行の治療(カウンセリング、既存の抗酒薬・抗渇望薬など)が十分に行き届いていない

といった課題が明記されています。

スタンフォード大学の精神科医アンナ・レンブケらも、「脳の報酬系に作用する新薬が“別の依存”を生み出さないとも限らない」として、慎重な使用と厳密なモニタリングを求めています。Stanford Medicine



コストと格差という現実

もう一つの大きなハードルが「お金」です。

GLP-1薬は1か月あたり数百〜千ドル規模と高額で、アメリカでは保険の適用も主に糖尿病や肥満が対象。依存症治療目的の“オフラベル”処方は基本的にカバーされません。The Washington Post


ワシントン・ポストの記事によれば、Caronの患者の中には、遺産を取り崩して毎月約1,000ドルの自己負担で注射薬を購入している人もいます。The Washington Post


一部の施設では、ジェネリック相当の調剤薬局製剤を使ったり、糖尿病や肥満治療として保険請求しつつ実際には渇望の軽減を狙う「ピギーバック処方」を行ったりしているとされ、倫理的な議論も起きています。The Washington Post


一方で、アメリカでは2035年までに人口の約9%が何らかのGLP-1薬を使うとの予測もあり、「富裕層だけが“渇望を静かにできる薬”にアクセスできる社会は公正なのか」という問いも突き付けられています。バッファロー大学



依存症医療のパラダイムシフトになるのか

依存症は「意志が弱い人の問題」ではなく、脳の可塑性と環境ストレスが絡み合って起こる慢性の脳疾患だという理解が広まりつつあります。それでも、治療オプションは長らく限定的でした。


アルコール使用障害に対してFDAが承認した薬は3種類あるものの、実際に薬物療法を受けている人は全体の2〜4%に過ぎないというデータもあります。The Washington Post


オピオイド依存にはメサドンやブプレノルフィンなど有効な薬が存在しますが、「代わりのドラッグを渡しているだけだ」といった偏見から、十分に使われていません。The Washington Post


GLP-1薬がもし、アルコールやタバコ、さらにはギャンブルや買い物といった行動嗜癖にも広く効くことが示されれば、

  • 「一つの薬で複数の依存症リスクを下げられる」

  • 「肥満・糖尿病・依存症という三つの公衆衛生問題を同時にターゲットにできる」

という、これまでにない戦略が現実味を帯びます。The Washington Post


しかし、その未来を手放しで歓迎するかどうかは別問題です。
渇望の“音量”を下げる薬があるからといって、トラウマや孤立、貧困といった依存症の根っこにある社会問題が解決するわけではありません。むしろ、薬が効いているあいだにこそ、生活環境の改善や人とのつながりを回復する支援が必要になります。endocrine.org



日本の読者への注意点

ここまで紹介してきたのは主にアメリカや欧米での状況であり、日本で同じような処方が広く行われているわけではありません。

  • GLP-1薬は、糖尿病や肥満など限られた適応のもとで処方される医療用医薬品です

  • 海外の情報を見て個人輸入や自己判断で使用すると、重い副作用や健康被害を招くおそれがあります

  • 依存症に関して悩みがある場合は、精神科・心療内科や依存症専門医療機関、保健所など公的窓口に相談することが大切です

この記事は最新の研究・報道をもとにした解説であり、特定の薬剤使用を推奨するものでも、医療上の判断を代替するものでもありません。


それでも、GLP-1薬をめぐる動きは、「食欲」と「依存」を切り離して考えてきた従来の発想を揺さぶっています。
いつか、「痩せる薬」が、酒やドラッグ、さらにはそれらに翻弄されてきた人生そのものを静かに変えていく——。
そんな未来図が、いま世界の研究室とSNSのタイムライン上で少しずつ描かれ始めているのです。



参考記事

GLP-1の驚くべき新たな用途:アルコールと薬物依存症 - ワシントン・ポスト
出典: https://www.washingtonpost.com/health/2025/11/16/glp1-weight-loss-addiction-drug-alcohol/