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搾取はアップデートされ続ける:デジタル時代にこそ問われる「人間のコスト」

搾取はアップデートされ続ける:デジタル時代にこそ問われる「人間のコスト」

2026年01月13日 14:12

「効率」はいつから“免罪符”になったのか

AIによる自動化、ギグワークの拡大、気候変動対応のコスト転嫁——いまの経済ニュースは、だいたい「変化への適応」を称える言葉で満ちている。だが、その“適応”の下で、誰が疲弊し、誰が切り捨てられているのか。Phys.orgが紹介した論考は、こうした局面を単なる経済・技術問題ではなく、道徳の問題として真正面から扱う。問いはシンプルだ。「人間のコストに、誰が責任を負うのか?」。そして「それを“仕方ない”で済ませない企業文化へ、どう変えるのか?」。


著者は、この“冷酷さの常態化”を、イェール大の法学者ジェームズ・ホイットマンが用いた表現になぞらえて**“moral menace(道徳の脅威)”**と呼ぶ。強欲というより、搾取や害を「進歩の代償」「効率のため」と言い換え、正当化し、再生産してしまう型のことだ。


“moral menace”の根っこ:所有が人間を物に変えるとき

論考が鋭いのは、「冷酷な経営者がいるから社会が悪くなる」という単純な善悪論に落とさず、冷酷さが“制度”として正当化されてきた歴史を辿る点にある。


起点のひとつとして挙げられるのが、古代ローマの財産法的な発想だ。そこでは妻子や奴隷、動物までが“所有物”として扱われ、所有者の意思で暴力を含む支配が可能だったという。ここで重要なのは、冷酷さが「例外的な悪」ではなく、秩序として設計されうるという事実だ。


さらに歴史を進めると、15世紀には宗教権威による征服の正当化(土地の奪取、奴隷化、労働の収奪)が語られ、17世紀には交易と帝国の拡張の中で、搾取が“効率”へと翻訳されていく。植民地・奴隷制経済の現場では、会計・物流・労務統制が洗練され、利益最大化のために人間が部品化される。こうして、非人間性が「管理技術」として蓄積されていった、という見立てだ。


そして現代。私たちは「生産性」「最適化」「KPI」「コスト削減」という言葉を、ほとんど無臭の“合理性”として使う。でも、その合理性がどこから来たのかを辿ると、実は人を削って成果を絞り出す発想が、長い時間をかけて“経営の正しさ”として固まってきた可能性がある。


現代の“脅威”は、派手な悪役の顔をしていない

“moral menace”が厄介なのは、悪意むき出しの暴君として現れるとは限らないことだ。むしろ多くの場合、それは会議資料の箇条書きとして現れる。

  • 人員は最小で回して

  • 期限は前倒しで

  • 顧客体験は落とさずに

  • コストは削って

  • でも離職率は上げないで


こういう無理難題が、まるで当然のように飛び交うとき、職場はじわじわと「人を手段として扱う空気」をまとっていく。論考は、こうした冷酷さが“管理の正統”として固まり、文化的な後ろ盾まで得ていると指摘する。たとえば強者の支配を美化するような物語が人気作品に現れ、搾取的なふるまいが“強さ”として消費される——そんな見立ても示される。


しかも皮肉なのは、それが必ずしも「良い業績」を生むわけではない点だ。論考では、支配的・冷淡なスタイルが望ましい成果を生みにくいこと、そして従業員エンゲージメントの低さ(例として31%という数字への言及)にも触れられる。つまり、人を削る経営は、人も組織も痩せさせる。


対抗軸としての“moral muse”:利益とケアは両立できる

では、どうすれば“脅威”を弱められるのか。論考は対抗概念として、ケアと公正を組織に持ち込むリーダーを**“moral muse(道徳の導き手)”**と呼ぶ。ポイントは「優しい上司になろう」という精神論ではなく、制度・ガバナンス・評価の作り替えに踏み込むことだ。


歴史上の例としては、商業倫理を批判した宗教改革期の言説、富裕層の支配への警戒を述べた建国期の政治家の議論などが取り上げられる。さらに現代の企業例として、従業員を重視する価値観を制度化した取り組みに触れ、「ケアを組織原理にしても利益は犠牲にならない」可能性を示す。


著者の主張は、単発の福利厚生やスローガン、ESG目標だけでは歴史的に堆積した冷酷さは抜けない、という現実主義でもある。必要なのは、“moral muse”が臨界点まで増え、効率・価値・成功の定義そのものを書き換えること。つまり「何を最適化するのか」を再設定する戦いだ。



SNSの反応(公開範囲で確認できた投稿+論点の傾向)

※XやFacebookなどは閲覧制限で全量確認できないため、ここでは**(1)公開ページで本文が読める投稿の内容と、(2)同種テーマで典型的に起きる論点**を分けて整理する。


1)“道徳の問いに戻れ”派:テックと気候の議論に足りないピース

LinkedIn上では、この記事の冒頭にある問題提起(デジタル変革・気候危機は道徳問題でもある)を引用し、「人間のコストに責任を持てるのか」という視点を強調する共有が見られる。


この層は、AI・DXの話が「生産性」「競争力」だけに寄りがちな現状に対し、倫理を“後付けのチェック”ではなく“設計条件”に戻そうとする。


2)“資本主義は必要、だからこそ救え”派:改革の方向をめぐる現実論

別のLinkedIn投稿では、資本主義の問題点を認めつつも、「資本主義以外は現実的でない」「だから行き過ぎを抑えるべき」という語り口が見られる。例として、住宅を機関投資家が買い上げ価格をつり上げる問題に触れつつ、資本主義の“過剰”を是正すべきだと述べている。


この層は、“moral menace”を資本主義そのものの否定ではなく、暴走を止めるための診断として読む。


3)“それ、きれいごとでは?”派:ESG疲れ・道徳語りへの不信

本文が提示する“moral muse”像に対しては、SNSではしばしば「結局はPRでは?」「制度を変える気がないなら美談だ」といった反応も出やすい。今回、閲覧制限で大量の実コメントを提示できない一方、論考自体が「単発のESGや誓約では根を抜けない」と釘を刺している点は、まさにこの反発を見越した設計に見える。


4)“具体策を”派:評価制度・調達・サプライチェーンに落とせ

最終的に議論が向かうのは、「じゃあ何を変える?」だ。ここで現実的なのは、

  • 短期利益だけで管理職を評価しない(離職・安全・健康・育成も指標に入れる)

  • 外注・下請け・ギグの“見えないコスト”を可視化する

  • 気候対応を弱者へのコスト転嫁にしない(公正な移行)
    といった“制度のネジ”を締め直す話になる。論考も、文化を変えるには臨界点が必要だと述べ、個別施策の限界を示しつつ「定義の再設計」を求めている。



まとめ:私たちは「どんな効率」を選ぶのか

“moral menace”という言葉が刺さるのは、冷酷さが悪人の専売特許ではなく、「仕組み」と「言い換え」によって増殖するからだ。「効率化」「最適化」「改革」——耳触りの良い言葉が、誰かの痛みを隠すカーテンになる。


逆に言えば、希望もそこにある。定義は人が作ったものなら、作り替えられる。利益とケアを両立する“moral muse”は、奇跡ではなく、制度設計の積み重ねとして増やせる。技術と気候の時代に必要なのは、新しい道具以上に、古くて根深い冷酷さを見抜く目なのかもしれない。 



参考記事

資本主義の核心にある道徳的脅威を制御する
出典: https://phys.org/news/2026-01-moral-menace-capitalism-core.html

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