「英語の自分」と「日本語の自分」は違う? 感情と判断を分ける心の仕組み

「英語の自分」と「日本語の自分」は違う? 感情と判断を分ける心の仕組み

日本語では言いにくいことが、英語ならすっと口から出る。外国語で仕事をしているときは、いつもより率直になれる気がする。

言語を切り替える生活を送る人にとって、「話す言葉によって自分の雰囲気が変わる」という感覚は、想像しやすいものだろう。

では、その変化は善悪の判断にまで及ぶのだろうか。日本語ではためらううそを、英語なら許容する。母語では受け入れられない犠牲を、外国語なら合理的だと考える。そんなことが起きるのか。

2026年11月4日にPhys.orgが掲載した研究者の解説は、この問いに単純な答えを出していない。言葉が変われば、感情や自己認識が変わることはある。しかし、それだけで道徳的な判断まで変わるとは限らない。

注目すべきなのは、使う言語だけではない。その言葉で考えている人が、何を大切にしているかである。


「外国語なら合理的になる」という説

外国語と意思決定の関係をめぐっては、「外国語効果」と呼ばれる現象が研究されてきた。

道徳判断の研究でよく使われるのが、少数の人を犠牲にすることで、より多くの人を救えるという仮想的な状況だ。過去の研究には、母語よりも外国語で問題を読んだときのほうが、犠牲を伴う選択を受け入れやすくなると報告したものがある。

説明の一つは、外国語を通すことで状況との心理的な距離が生まれ、感情的な抵抗が弱まるというものだ。

ただし、「多数を救う選択」と「合理的な選択」、さらに「道徳的に正しい選択」は、同じ意味ではない。何人が助かるかを重視する立場もあれば、人を手段として扱わないことを重視する立場もある。

外国語で答えが変わったとしても、それだけで判断の質が向上したと結論づけることはできない。また、そもそも言語による違いが確認されない研究もある。

今回の研究が着目したのは、そのばらつきを考えるうえで見落とされがちだった「判断する本人」の特徴だった。


106人に尋ねた、命と誠実さをめぐる四つの問い

研究には、ギリシャ語を母語とし、中上級または上級レベルの英語力を持つ106人が参加した。

参加者は、四つの道徳的なジレンマに回答した。二つは、多数を救うために一人を犠牲にすることの是非など、人への危害に関わる問題。残る二つは、採用されやすくするために履歴書でうそをつくことや、不貞をパートナーに打ち明けるかどうかといった、誠実さと信頼に関わる問題だった。

さらに、自分の道徳観に関する質問にも答えた。参加者の半数はギリシャ語で、もう半数は英語で調査を受けた。

ここは研究を読む際の重要な点だ。同じ人が言語を切り替える前後を比べたのではなく、異なる言語で回答する二つのグループを比較している。

結果として、ギリシャ語か英語かという違いだけでは、道徳的な選択に明確な差は確認されなかった。英語で回答した人が、一律に犠牲を容認しやすくなったわけでも、拒否しやすくなったわけでもない。

これは「外国語は判断に絶対に影響しない」という証明ではない。少なくとも、今回の参加者と課題では、言語だけで判断の方向を説明できなかったということだ。


言葉が変えたのは、「私はどんな人間か」という感覚

判断そのものに違いが見られなかった一方で、自己認識には違いがあった。

母語のギリシャ語で回答した参加者は、英語で回答した参加者よりも、「道徳的な人間であること」を自分らしさの中で重視していた。

研究の鍵となるのが、「道徳的アイデンティティー」という考え方だ。これは、誠実さ、公平さ、思いやりなどを、自分という人間の中心にどれほど位置づけているかを指す。

例えば、「うそはよくない」と知っていることと、「正直であることは、自分が自分であるために欠かせない」と感じることには違いがある。後者では、誠実さが単なるルールを超えて、自己像の一部になっている。

研究者は、母語が幼少期や家庭、価値観を学んだ社会環境と深く結びついていることを、結果の説明として挙げている。

子どものころに言われた「正直に話しなさい」「相手の気持ちを考えて」。そうした経験と結びついた言葉を使うことで、自分の道徳観を思い出しやすくなる可能性がある。

ただし、これは考えられる仕組みの一つであり、今回の研究がその原因を直接証明したわけではない。


「自分は誠実でありたい」と「実際にどう選ぶか」は別

母語で道徳的な自己像を強く意識したからといって、あらゆる道徳関連の指標が高まったわけではない。

元記事によると、自分の原則に沿って行動しようとする動機には、同じような言語差は見られなかった。

つまり、次の三つは分けて考える必要がある。

  • 自分をどのような人間だと捉えているか
  • その場でどれほど強い感情を抱くか
  • 最終的にどの選択肢を選ぶか

「母語だと自分の良心を身近に感じる」ことと、「母語なら必ず誠実に行動する」ことは同じではない。

そもそも、質問紙への回答は現実の行動そのものではない。履歴書のうそについてどう答えるかと、生活がかかった就職活動で実際に何を書くかの間にも隔たりがある。

この研究から、使用言語によって人の誠実さを判定することはできない。


第二言語のほうが、感情が強くなることもあった

もう一つ興味深いのは、英語で回答した参加者が、ギリシャ語で回答した参加者より強い感情を報告する場面があったことだ。

「外国語なら感情が薄まる」という説明だけを知っていると、意外に感じるかもしれない。

しかし、外国語を使う経験は一様ではない。教科書で学ぶ言語、日常的に仕事で使う言語、親しい相手と話す言語では、その言葉に結びつく経験が異なる。

今回の研究から、なぜ第二言語で感情が強まったのかを一つの原因に絞ることはできない。それでも、外国語を使えば必ず感情から距離を取れる、という一般化には慎重になる必要がある。

そして、強い感情が報告されたことは、判断の違いには直結しなかった。

心が強く揺れても、最後に選ぶ答えは同じかもしれない。逆に、落ち着いて答えていても、その人が深く考えていないとは限らない。感情の強さと判断の内容を、ひと続きのものとして扱わない視点が必要だ。


判断に関係していた「自分にとっての大切さ」

研究者が強調しているのは、道徳的アイデンティティーの個人差が、ジレンマへの回答と関連していたことだ。

道徳的な価値観を自己像の中で強く重視する参加者ほど、強い感情的反応を報告し、不誠実な行為や危害を伴う行為を拒否する傾向があった。とりわけ、履歴書のうそなど日常的な誠実さに関わる問題で、その関連が目立ったという。

ただし、これは「道徳観を強く意識させれば、必ず行動が改善する」と示した介入実験ではない。自己像と回答の間に関連があるという結果だ。

それでも、言語だけを見ていては捉えにくい部分を浮かび上がらせている。

私たちは、問題文を読む前から人生を送っている。約束を守れなかった後悔も、信頼してもらえた喜びも、自分なりの譲れない一線も持っている。言葉を切り替えても、それらがすべて消えるわけではない。


SNSでは「感情の言語」と「考える言語」を分ける体験談も

今回の2026年11月の記事に対する直接のSNS反応は、確認できた範囲では十分に集められなかった。そこで、関連する過去の公開議論を紹介したい。

 

海外掲示板Redditでは、2024年に紹介された多言語話者の脳研究をめぐり、言語と感情の結びつきについてさまざまな体験談が投稿されている。今回の道徳判断研究への反応ではない点には注意が必要だ。

ある投稿者は、悲しみなどの感情はスペイン語で経験する一方、振り返ったり分析したりするときは英語を使う、と説明していた。

別の投稿者は、配偶者との幸せな思い出はスペイン語に結びついているが、一緒に営んでいた仕事では英語を使っていたため、仕事の話になると自然に英語へ切り替わると述べている。

また、第二言語のほうが感情について話しやすく、他人に心を開きやすいという体験談もあった。

これらの投稿から見えてくるのは、母語と外国語を単純に「感情的な言語」「冷静な言語」に分けられないという生活の実感だ。ある人にとって外国語は仕事の言葉でも、別の人にとっては家族との思い出が詰まった言葉かもしれない。

もちろん、SNSの投稿は自己選択的に集まった個人の体験であり、研究結果の裏づけにはならない。「多くのバイリンガルがそう感じている」と割合まで推測することもできない。

それでも、言語の作用を考えるとき、その人が誰と、どこで、どんな経験をしてきたかを無視できないことには気づかされる。


日本の職場や暮らしで、どう受け止めればよいか

今回の研究はギリシャ語と英語の話者を対象としており、日本語と英語を使う人に同じ結果が出るとは限らない。

そのうえで、日本の職場や日常生活を考えるヒントはある。

例えば、英語の会議で発言が簡潔になる人を、「日本語のときより冷たい」と評価するのは早計だ。表現できる語彙や、会議で期待される話し方が変わっている可能性もある。

反対に、英語で話すと議論が進みやすいからといって、その結論が自動的に公平で合理的になったと考えることもできない。言いやすさと、判断の妥当性は別の問題である。

ここから先は研究で効果が検証された手法ではなく、結果を踏まえた実務上の提案だ。

重要な判断では、使う言語だけに注目せず、「誰にどんな影響があるか」「自分たちは何を優先しているか」「見落としている立場はないか」を確認する時間を設けるとよいだろう。

必要なら、最も考えやすい言語で一度整理し、それを共有言語に戻して説明する。ただし、母語に戻せば正しい答えが出るという意味ではない。自分の判断理由を、よりはっきり捉えるための工夫である。


言葉は自分の一面を引き出す。でも、すべてを決めない

この研究には、106人という規模、限られた言語の組み合わせ、四つの仮想的な課題という範囲がある。現実の交渉や対人関係に、そのまま当てはめることはできない。

また、言語による判断差が確認されなかったからといって、小さな影響まで存在しないと断定することもできない。

それでも、研究が投げかける問いは身近だ。

英語で話す自分が、日本語で話す自分と少し違って感じられる。その感覚を否定する必要はない。言葉によって、思い出しやすい経験、表現しやすい感情、意識しやすい自己像が変わることはあり得る。

ただ、その違いをすぐに「人格が変わった」「良心が弱くなった」と解釈する必要もない。

言葉が変わったとき、心のどこが動くのか。そして、動いてもなお残る大切なものは何か。

外国語と道徳観の研究は、「何語なら正しく判断できるか」という問いから、「自分は何を大切にして判断しているのか」という問いへ、私たちの視線を向けている。


出典・参考資料

  1. Phys.org/The Conversation:106人を対象とした調査、判断・自己認識・感情の違いについて参照。
    https://phys.org/news/2026-11-language-shift-moral-compass-overpower.html

  2. Bilingualism: Language and Cognition:対象となった研究論文「Moral identity and language jointly influence how bilinguals feel and decide」。
    研究の書誌情報と、道徳的アイデンティティーと言語を扱う研究であることを確認。
    https://doi.org/10.1017/S136672892610159XCambridge Core

  3. Reddit・r/science:多言語話者の脳研究をめぐる過去の公開議論。
    スペイン語と英語で感情・分析・仕事を使い分ける体験や、第二言語で気持ちを話しやすいという投稿を参照。今回の記事への直接の反応ではなく、関連する体験談として紹介。
    https://www.reddit.com/r/science/comments/1bctssu/for_people_who_speak_many_languages_theres/