好感度だけでは守れないもの ― 艾德·希兰事件与音乐界的言论自由

好感度だけでは守れないもの ― 艾德·希兰事件与音乐界的言论自由

「政治を持ち込まない」は通用するか――エド・シーラン、共演者の降板が問う“中立”の代償

人々を分断する話題から離れ、好きな歌を一緒に歌う。コンサートにそんな時間を求める人は少なくない。

エド・シーランも、自分のステージをそのような場所にしたいと考えてきた。幅広い世代に届く楽曲と、気取らない人柄。誰もが参加できる空間というイメージは、世界的な人気を支える大きな要素だった。

ところが、その「誰もが安心できる場所」を守るための説明が、逆に厳しい批判を招いている。

米国ツアーの共演者だったマックルモアが、ステージ上でのパレスチナ支持発言をめぐって出演を外された。続いて、残る公演に参加予定だったアーティストたちも離脱した。

なぜ、前座の出演変更が、主役の信頼を揺さぶる問題になったのか。今回の騒動には、音楽と政治だけでなく、舞台を所有する側の力と、そこに立つ人の責任が重なっている。


発端は、ステージからのパレスチナ支持

提供されたBBCの記事によると、マックルモアはシーランの米国公演で「Free Palestine」と訴え、ガザの破壊を伝える映像を示した。翌日の公演では、ガザで起きていることをジェノサイドと表現した。イスラエルは、そのような認定を否定している。

これに対し、反ユダヤ主義への対抗を掲げる団体StopAntisemitismなどが反発。NFLニューイングランド・ペイトリオッツのオーナー、ロバート・クラフトら会場側から、マックルモアをツアーから外すよう圧力がかかったとBBCは報じている。

シーランは声明で、降板を決めたのは自分ではなくプロモーターだと説明した。関係者の間を取り持とうとしたものの、解決には至らなかったという。

ここで区別しておきたいのは、パレスチナの人々への支持、イスラエル政府への批判、ユダヤ人に対する差別は、それぞれ異なるものだという点だ。

今回も、マックルモアの発言を人道的な訴えと受け止める人がいる一方、反対する側は、その言動がユダヤ人の観客に与える影響を問題視している。双方が何を批判し、何を守ろうとしているのかを分けなければ、論争の実像は見えにくくなる。


「決定した人」と「責任を問われる人」が違う

シーランの説明は、興行の仕組みとしては重要だ。

巨大なツアーは、歌手一人の判断で動くものではない。主催者、会場、制作会社、多くのスタッフが関わる。会場の利用が難しくなれば、出演者だけでなく、公演を待っている観客や現場で働く人にも影響が及ぶ。

シーラン自身も、ファンを失望させたくないこと、ツアーを生活の糧にするスタッフを守りたいことを挙げている。

それでも批判は収まらなかった。批判する人々が求めたのは、誰が決裁したかという説明にとどまらなかったからだ。

世界的なスターであるシーランには、決定に対抗する影響力があったのではないか。公演の実施を条件に交渉したり、別の会場を検討したりする余地はなかったのか。

BBCの取材に応じた音楽ジャーナリスト、ジェフリー・インゴルドは、シーランが持つ交渉力を使わなかったと批判した。

ただし、代替会場への変更が実際にどこまで可能だったかは、公開された情報からは分からない。批判としての「できたはず」と、契約や日程を含む実務上の「できた」は、同じではない。

その不確かさを残してもなお、主役には判断を説明する責任がある――そこが今回の対立の中心になっている。


共演者の離脱で、問題の意味が変わった

騒動を大きくしたのは、ほかのアーティストの行動だった。

BBCによれば、フィニアス、アーロン・ロウ、ルーカス・グラハムが出演を取りやめ、シーランの演奏を支えるベオガも離脱した。

マックルモアだけが出演を外れた段階では、問題は彼の発言の是非として語られやすかった。だが、ほかの共演者も去ったことで、争点は「どのような条件なら、この舞台に立ち続けられるか」へと広がった。

参加を続けることも、参加をやめることも、意思表示として受け取られる。政治的な発言をしない人まで、政治的な判断を迫られる状況になったのである。

BBCは、離脱したアーティストの多くが、富裕な会場所有者の意向による出演排除は、表現を萎縮させると懸念していたと伝えている。

発言した本人への処分だけが問題なのではない。次に同じ舞台に立つ人が、「この話題に触れれば仕事を失うかもしれない」と考える。その先回りした自制まで含めて、音楽界の問題として受け止められた。


「政治的な発言をしない」という説明の難しさ

シーランは、音楽が人を結び付けることを大切にし、子どもを含む多様な観客のために、仕事上の場で政治を語らないと説明した。

その考え方自体には、理解できる部分がある。コンサートに来る人全員が、出演者の政治的見解を聞きたいわけではない。日々の不安から少し離れるために、チケットを買う人もいる。

しかし、この説明には過去の活動との整合性が問われた。

BBCは、シーランがグレンフェル・タワー火災に関する正義を求めるTシャツを着用したこと、2022年のウクライナ支援コンサートに出演したことなどを挙げている。

ここから生まれるのは、なぜ、ある出来事への支援は人道的な行動として示せるのに、別の出来事では政治的な発言を避けるという説明になるのか、という疑問だ。

もちろん、すべての紛争や社会問題について、同じ方法で発言する義務があるわけではない。知識や関係性、本人が果たせる役割も異なる。

それでも、公に説明した原則は、過去の行動と照らし合わせて評価される。「政治を語らない」という言葉だけでは、その違いを十分に説明できなかった。


SNSでは、楽曲への評価を超えた支持も

SNS上では、マックルモアの発言を支持する反応が確認できる。

 

海外掲示板Redditの芸能コミュニティ「r/Fauxmoi」で、パレスチナ支持のスピーチを扱った投稿には、発言を続ける姿勢への感謝や敬意を示すコメントが寄せられていた。

特徴的だったのは、音楽の好みと人物への評価を分ける反応だ。楽曲にはそれほど引かれなくても、信念を示す姿勢は支持する、という趣旨の書き込みもある。

こうした反応からは、一部の利用者が、売上やヒット曲とは別の尺度でアーティストを評価していることが分かる。何を歌ったかに加えて、どのような場面で声を上げたかが、その人を支持する理由になっている。

ただし、この投稿はパレスチナ支持のスピーチを取り上げた特定コミュニティの議論であり、降板後の世論全体を示すものではない。シーランのファン全体が同じ考えだと結論づけることもできない。


批判的な反応もあり、受け止めは一様ではない

一方、BBCは、歌手P!nkがマックルモアに批判的な画像を再投稿し、自身の考えを説明したと伝えている。Business Insiderも、彼女が発言への恐怖やユダヤ人コミュニティの受け止めに言及したと報じた。

同じステージ上の言葉でも、ある人には連帯の呼びかけとして届き、別の人には不安を与える。その隔たりが、今回の議論を難しくしている。

重要なのは、支持者と批判者を、それぞれ単一の集団として扱わないことだ。パレスチナの人々を支援する立場の中にも、表現の方法について異なる考えがあり得る。ユダヤ人の安全を重視する立場にも、出演排除への賛否があり得る。

今回確認できた投稿や報道から言えるのは、反応が分かれているということまでだ。「SNSが一斉に支持した」「世界中のファンが離れた」といった断定には、別の根拠が必要になる。


問われているのは、舞台の発言を誰が決めるか

この騒動を、シーランが勇敢だったか、臆病だったかという人物評だけで終わらせると、重要な仕組みが見えなくなる。

スタジアムのような大規模会場を使えるかどうかは、出演者がどれだけ多くの人に声を届けられるかを左右する。会場の利用条件は、単なる運営上の問題であると同時に、表現の届く範囲を決める条件にもなる。

ここから考えるべきなのは、発言を制限する基準がどこにあり、それが事前に共有されているのかという問題だ。

差別や暴力の扇動への対応と、意見の不一致への対応を、どのように区別するのか。出演継続が争われたとき、誰が説明を行い、観客や共演者は何を知ることができるのか。

これは今回の当事者に限らない。音楽祭やスポンサー付きイベントなど、多くの関係者が支える舞台にもつながる問いである。

ルールが曖昧なままでは、発言する側も、観客の安全を守る側も、騒動が起きてから判断を迫られる。その結果、最も目立つ出演者の声明だけに、複雑な問題が集中してしまう。


寄付という行動と、残り続ける争点

騒動の後、マックルモアはツアーで得た純収益100万ドルを、パレスチナの人々を支援する6団体に寄付すると表明した。Peopleは9月16日の投稿として報じている。

これは、議論の焦点を自分の出演問題から、支援を必要とする人々へ戻そうとする動きといえる。

ただし、寄付による支援と、出演を外す判断の妥当性は別の問題だ。人道支援が進んだとしても、舞台での発言をめぐる基準や、共演者が離脱した理由が消えるわけではない。

同様に、シーランが公演を続けられるかという問題と、失われた信頼を回復できるかという問題も分けて考える必要がある。


炎上の大きさだけでは、今後は決まらない

BBCの取材に対し、米Varietyのジェム・アスワドは、今回の批判が必ずしもシーランのファンから出ているとは限らず、キャリアへの大きな打撃につながるかについて慎重